「今日」から学ぶ。

「社会とは?」「『女性の社会進出』という言葉」 – 「9月10日」から学ぶ。

おはようございます。
本日、9月10日(木)。

今年は366日ありますが、今日はその254日目です。

今日も、「9月10日」という日から少し学んでみましょう。

9月10日はある数学者の命日。

9月10日は、あまり知られていないですが、フランスの数学者・物理学者エミリー・デュ・シャトレという人の命日です。

女性科学者の先駆け

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エミリーは、1706年12月17日に生まれ、1749年9月10日に42歳の若さで亡くなりました。

肖像画を見ても分かるように、女性の数学者・物理学者です。

1700年代という、学問がまだ男性だけに閉じていた時代に数学者・物理学者として生きたエミリーは、女性科学者の先駆けとして知られています。

エミリーの業績

そんなエミリーが残した業績は、主に3つあります。

  1. 赤外線の存在を予言した。
  2. 運動エネルギーが、質量と速度の2乗に比例することを示した。
  3. ニュートンの「プリンキピア」を仏訳した。

特筆すべきは、2つ目と3つ目です。

まずは2つ目の「運動エネルギーが質量と速度の2乗に比例すること」に関して。

今では、速度(v)で運動する質量mの物質の運動エネルギー(E)は「E=1/2mv2」と表されると高校(早ければ中学)の物理で習うので、習ったことのある人にとってはある意味当たり前のように感じます。

しかし、当時はアイザック・ニュートン(リンゴの人)らが主張していた「速度そのものに直接比例する」という考え方が正しいと信じられていました。

その中で、エミリーはライプニッツの理論などを使い、上記の主張をしました。そして結論としてはその主張の方が正しかったのです。

でも、ニュートンらの主張が当時は正しいと思われていたため、エミリーの主張はなかなか受け入れられませんでした。実際、エミリーの考えが受け入れられたのは、彼女が亡くなって約100年経ってからでした。

(ちなみに、エミリーの主張である「E=1/2mv2」は、高校物理で習う内容ですが、最近ではこれを背景とした中学受験の問題も増えてきています。もし中学受験をするのであれば、この式の意味を先生に聞いておくといいかもしれませんね。)

次に、3つ目の「プリンキピアの仏訳」に関して。

エミリーの業績としては、これがもっとも代表的なものとなっています。

アイザック・ニュートンが著した「プリンキピア・マセマティカ(自然哲学の数学的諸原理)」は、原文はラテン語で書かれていました。

その「プリンキピア」をフランス語に訳し、フランスに広めたのが、このエミリーです。約300年経った今でも、フランスではプリンキピアと言えばエミリーの仏訳版が代表的存在となっています。

さて、ここからはちょっと話の段落を変えてみます。

エミリーという科学者の人生を思いつつ、「女性の社会進出」というテーマについて、ちょっと思いを巡らせてみましょう。

「女性の社会進出」という言葉の矛盾

エミリーが生きた1700年代は、まだ女性が学問の世界で生きることはなかなか難しい時代でした。その「古い考え」は、時代とともに減っては来ているのものの、今でもなお残っています。

そういった時代を強く生きた女性の話は、僕らに何か感じさせるものがありますよね。

ただ、こういった話の時によく引き合いに出される「女性の社会進出」という言葉。この言葉の矛盾に気づかない人が、日本には非常に多い気がします。

そもそも、「社会」とは何か?

みなさんは小学生のころから、学校の授業で「社会(科)」という授業を受けて育ってきました。そこで、そもそもの質問です。

「社会」ってなんですか?

この問いに、すぐ答えられますか?

すぐでなくても、自分なりの答えはいえそうですか?

これ、実は定義はすごく複雑です。

でも、一般的な定義を簡素化して言うならば、「集まって生活を営む集団のこと」です。

「僕らは一人では生きていけない」なんてよく言いますが、これはある種のきれいごとで、現実は真逆なんだと思います。「僕らは生まれたその瞬間から、1人で生きられる環境に触れることはできない。」。自分たちの人生におきかえて、ちょっと考えてみましょう。

僕らは生まれた瞬間、自分ひとりではまだ何もできない存在として生き始めます。なので、親や兄弟・姉妹(もしくはそれに準ずる存在)に助けてもらいながら生活を始めます。そう、これが僕らにとって最初の「社会」なんです。ここで、言葉をはじめたくさんのことを学びます。

その後、幼稚園や保育園といった次の「社会」に足を踏み入れます。血のつながりのない人たちと初めて共に生活する「社会」です。

さらにその後、小学校・中学校と、人によってはその先の高校・大学・大学院と、「教育」をテーマに共同生活をする「社会」の中をさらに生きていきます。

そして学校を卒業すると、今度は「働く」というテーマの社会に出ていきます。

働き始めると、人によっては日本を飛び出し、「海外」という世界の社会に出ていきます。「グローバル社会」なんて言葉もありますが、イメージとしてはそれに近いですね。

こんな風に、僕らは生まれたその瞬間から、さまざまな「社会」の中で生き続けているんです。

「女性の社会進出」という言葉。

さて、ここで先ほどの「女性の社会進出」という言葉について、ちょっと考えてみましょう。

「女性の社会進出」を今後日本では進めていかなければならない、なんて、政治家、教育者、テレビのコメンテーター、その他さまざまな人が当たり前のように言います。

でも、それって裏を返せば、女性はまだ社会に進出できていない、ということになりますよね。

「女性の社会進出」という言葉を使う場合、たいていは学校を出た後の話をしています。つまり、先述の文章を使うなら、「働く」というテーマの社会のことです。

日本では、「働く」というと「お金を稼ぐこと」に置換しがちです。お金を稼いでいると「働いている」。お金を稼いでいないと「働いていない」。

本当にそうなんでしょうか?

「働く」って、どういうことなんでしょうか?

先述の通り、この世の中は、大小さまざまな「社会」が多重的に層をなすことで出来上がっています。つまり、このさまざまな「社会」すべてが機能して、初めて一つの国が成り立ち、そしてそこに存在する人たちが生きていくことができるんです。

この「さまざまな社会を機能させるための作業をすること」、それが「働く」ということなんです。お金を稼ぐことはあくまでその一部。「お金を稼ぐこと」=「働く」というのは、かなり偏った考え方、もしくは視野が極端に狭い考え方なんです。

そして「さまざまな社会」の中で、もっとも重要でもっとも土台となっているのが、「家族」という社会です。一番小さい社会、でも一番重要な社会。つまり、ここを支える働きがもっとも必要で不可欠な「仕事」なんです。そのために、夫婦で家事を行い、育児を行い、生活のために必要なお金を稼ぐ。仕事の分担は夫婦多様でしょう。すべて二人で半分ずつする家族もあるでしょう。お金を稼ぐ人と、家事・育児をする人を完全に分ける家族もあるでしょう。それはどっちが正しいとかではなく、夫婦ごとに適しているほうを決めることなんです。

「家族」という社会を支える働きがもっとも不可欠な「仕事」なのであれば、「家事をするという仕事」「育児をするという仕事」「生活のために必要なお金を稼ぐ」という仕事、そのすべてが大事で、そのすべてが等価なはずです。その関係の中に、不等号はない。等号のみです。

そう考えると、例えば、外に出てお金を稼いできた夫が、家事と育児を専業でしている奥さんに向かって、「俺が稼いできた金だぞ」なんていうのは、本当にナンセンスな話なわけです。

毎日奥さんがしてくれる家事と育児の成果は、家族みんなが毎日穏やかに生きるための基盤として家族全体でシェアされているのだから、それであれば外で働いて稼いできたお金という成果も家族全体でシェアされるべきものなんです。「俺の金」なんてものはないんです。どこの昭和ですかそれ?ってなるんです。

つまり、「女性の社会進出」なんて言いますが、それは全然違う。たとえば専業で主婦をしている人は、すでに一番大切な土台であり不可欠である「家族という社会」を全力で支えているんです。時にはひとりで。「社会に進出」どころか、すでに社会を大きく担っているんです。

だからすでに社会を大きく担っている人に、「社会進出」なんて言葉を使うのはナンセンスなんです。その言葉自体がすでに、何かを良くしようとする流れを妨げてしまうメッセージが含まれてしまっているんです。

なので、ちょっと言葉を変えていきたいところです。言葉とともに、スタンスも。

どう変えるべきかは、それぞれでじっくり考えていきたいですね。ちょっと考えてみてください。

ではでは、今日はこのあたりで。

またお会いしましょう。