こんばんは。
今日は内容的に、なんだか夜に文章を書きたかったので、遅い時間に更新です。
本日、9月11日。
今年は366日ありますが、今日はその255日目です。
「9月11日」という日から、今日も少し学んでみましょう。
大学時代の教授の言葉
大学時代、とても好きな教授がいました。
小祝(こいわい)先生という病態学の教授で、僕はこの教授がいるからその大学に入学しました。年齢的にはおじいちゃんと呼ばれる年齢なんだけど、その風貌には柔らかさとスマートさがあって、でも内側には自信があって。すごくかっこいい教授でした。「ナンセンスだ」という言葉が口癖でした。
小祝教授の授業は1・2年生のうちは履修できなかったので、大学3年生になって初めて小祝先生の講義が履修可能になりました。僕は、難解だけど面白い小祝教授の病態学の講義を、毎週受けました。
ある講義の日。
講義が終わりに近づいたとき、小祝教授の口調が急に変わり、少し遠くを見ながら話し始めました。
「たとえば今日、この講義が終わったら、君たちはこの校舎の横に流れる川沿いの道を歩いて帰るだろう。
その時、西に落ちようとする夕陽が美しくて、それに見惚れたりするだろう。
それはそれでいいことだ。
でもね、それはある意味、ナンセンスなことなんだ。
夕陽がきれいなとき、その夕陽を見るだけじゃなく、その逆の空を見る。
物事を深く理解するというのは、そういうことだ。
そういう人に、君たちはなりなさい。」
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あの講義から10年ちょっと。
今日は9月11日。19年前にアメリカ同時多発テロが起きた日です。
この日を迎えると、小祝教授の言葉をよく思い出します。
「9.11」
今から19年前の2001年9月11日、「アメリカ同時多発テロ」が起きました。
アメリカ同時多発テロは、イスラム過激派のテロ組織「アルカイダ」によるアメリカへのテロ攻撃の総称です。当時、受験生だった僕は自分の部屋で勉強をしていました。姉が階段をダカダカと音を立てて登ってきて、ノックもせずに部屋を開けました。「ひろ、なんか大変なことになってる!」
アルカイダは、飛行機4機をハイジャックし、その4機をアメリカの主要箇所に衝突・墜落させることによってアメリカへの攻撃を試みました。4機のうち2機はニューヨークのワールドトレードセンター、1機はバージニアの国防総省本庁舎(ペンタゴン)、1機はワシントンの国会議事堂を標的としました。
そして、ワールドトレードセンターを標的とした2機は北棟と南棟に衝突。両棟とも倒壊しました。ペンタゴンを標的とした1機も本庁舎に墜落し、爆発炎上しました。
アメリカ国会議事堂を標的とした1機は、乗客の抵抗により標的にたどり着きませんでした。でも、ワシントンまで240kmの地点に墜落、乗員乗客は全員亡くなりました。(この機内でのやりとりは、「ユナイテッド93」というタイトルで映画化されています。)
この一連のテロ攻撃を受け、アメリカは非常事態宣言を出しました。
そして、アメリカは「Global War on Terrorism」という言葉を掲げ、アルカイダを支援した国への報復を宣言しました。これがアフガニスタン戦争・イラク戦争へとつながります。
「テロ」とは何が悪なのか?
このアメリカ同時多発テロを機に、日本でも国際的なテロリスト、もしくはテロリズムというものがかなり認識されるようになりました。
さて、テロリズムというものに関して少し考えてみましょう。
アメリカ同時多発テロに限らず、テロリズムというものが肯定される文脈というものはほとんど聞いたことがありません。絶対的な悪として扱われます。
ただ、ある時から、先述の小祝教授の言葉を思い出し、ふとこう思うようになりました。
「この逆側の空にあたるものって、何なんだろう?」
「いじめ」に置き換えてみる。
(ここから、一見テロを擁護するような文脈に感じるかもしれません。でもそういう意図ではないので、最後まで読んでみてください。)
たとえば、あるクラスでいじめが起きているとします。クラスの1人の人を、他の全員がいじめていたとします。
それが半年続き、ある日、いじめを受けていた子が意を決し、反撃をしたとします。他の生徒はみんな、けがをしました。けがをした子たちは、反撃した子を非難します。そして、その子に報復をすることを決めます。
このとき、いじめられて子(反撃した子)は悪、いじめていた子たちは正義なんでしょうか?反撃は悪、報復は正義なんでしょうか?
否定・非難すべき対象を考える。
昔、誰からかは忘れてしまいましたが、こう教えられたことがあります。
「もし誰かが誤った行動をしたら、その人自身ではなく、その行為を否定・非難しなさい。」
本当にその通りだな当時思いました。でも、そこから少し自分なりにアレンジして考えるようになりました。「もし誰かが誤った行動をしたら、『その人』と『その行動』の間にある『その人の感情・思考』の部分にしっかり目を向けること。」
先程のいじめの例でいえば、いじめられていた子が反撃して誰かを怪我をさせたという行為自体はもしかしたら否定・非難される対象になるのかもしれない。でも、それをするに至った感情・思考は別で考えなくてはならないわけです。いじめられて、半年も誰も手を差し伸べてくれなくて、もうどの方向にも行くことができないと悟り絶望して、でも状況を何とかして変えるために抗おう。もし彼がそう考えたなら、その感情と思考自体を、誰が否定・避難できるのでしょうか。そこに至る状況を作ったのは、彼ではないのに。
テロという「行為」とそれを生む「感情・思考」
話を元に戻しましょう。
テロという「行為」は絶対的に否定・非難されるべきものなのでしょう。
でも、テロという行為に至るまでに肥大した「感情・思考」っていったい何なのでしょう?
その点を理解できていなければ、単純にテロという「行為」を否定・非難することは、先述の例の反撃した子を背景も知らずに否定・非難することと同じことになってしまうかもしれません。もしそうならば、そこから解決の糸口を見つけることなんて無理で、むしろ状況を悪化させます。
多くのマスメディアは、絶対的な悪に見えるものは深い思慮なしに安易にそう結論付けて、それを大々的に報じます。そしてそれが視聴者の中に植え付けられていくんです。視聴者とは、この国に生きる人たちです。すなわち、その植え付けは社会に浸潤していき、それが「当たり前」のこととして認知されるようになります。
「当たり前」に寄りかかった平穏な日常は思考停止を生み、その思考停止が物事の改善を妨げていきます。
テロを行うに至る背景を知ったとき、その背景が到底理解できるものでなければ、テロリストとテロリズムを絶対的な悪として叩けばいいでしょう。でももしかするとそうじゃない可能性もある。僕らの生きる先進国が、無自覚に転がしている「資本主義」「商業主義」にはそれだけの可能性があるんです。そこには「人を数値として扱う」という感覚があるのだから。そしてそれを当たり前のように押し付けられれば、それに抗いたくなる人がいたとしても至極まっとうなことなのかもしれません。
「無知は罪悪」という言葉がありますが、これって本当にそうだと思います。
テロという「行為」の奥にある、「感情・思考」って何なのか?
そもそも、「絶対的な悪」なんてものが存在するのか?
そこに思いを巡らせる日の始まりに、今日をしたいものです。